2015年1月9日金曜日

恵比寿の風雲児編

スタジオライフの人間について書こうと思う。

スタジオライフ創立は1985年吉祥寺だが…其処に集う人間達を書くには、
其処からもう36年遡った東京山ノ手の風土についても触れなければならない。
1949年恵比寿…戦後の焼け野原がまだ彼方此方に残る山ノ手に、
創立者・河内喜一朗は産声をあげた。

父親は石工、それを支える母親との間に、一粒種として生まれ激愛されて育った。
話はいきなりそれるが…この父母の出逢いは、
まるで恋愛映画のワンシーンのような様子の中で繰り広げられた。
折しも戦後の食糧難の中…
関東近郊への買出し者達で溢れる列車に乗りあぐねていた母親のお尻を、
父親がグイっと押し上げ乗車を助けたところから二人の逢瀬が始まっている。
先代は酒に酔うと、この時のことを丸で見てきたかのように、
何度も何度も嬉しそうに話してくれた…まさに「君の名は」である。

話を戻そう。
父親は聞かん気の強い筋金入りの石工職人であったと、晩年の先代は振り返っている。
まるでドラマ「寺内貫太郎一家」の父親のようであったと…
今も靖國神社参道には、父親が彫った狛犬が堂々と東京を睨み据えている。
先代の結婚式の日には自分の彫った狛犬を見せたくて、
出席者である親戚を式場から人攫いの如く連れ出し、
なかなか式場に戻らず先代と母親をハラハラさせたそうである。

またこんなこともあった。
多数の地回り達と諍いになった時、一歩も引かず一人で立ち向かい、
半殺しの簀巻きにされて瓦礫の中に捨てられた。
二日後に息を吹き返し、
病院にも行かず自宅に戻って寝て快復させたと言う。

石工作業の塵肺に侵され、長じることは無かった。
母親は長じた。
晩年は、息子の舞台を楽しみに余生を謳歌された。
劇場にいらっしゃると、良く私がお席迄案内した…
その際には何時ものように、息子の出番が少ないと案じておられた。
二人は、一卵性親子かと思われるほど似ていて…
その口癖迄ソックリなのには驚いた。
「嫌んなっちゃうなぁ」である。
先代が女性役を演じた時なんかは、
其処に母親がいるとしか思えないほどであった。

河内家の家族温泉旅行に、一度お邪魔した事がある…
奥様が仕事で急遽のお誘いであった。
脳天気にお邪魔したが…お母様のお話を色々と伺えて楽しかった。
夕食を三人で食べている時に、息子さんの劇団が急成長していると
半分自慢を込めて話した…その時のお母様の反応が素敵だった。
ニコニコ笑いながら…「淳子と皆んなが偉いんだろ」と仰っていた。
頭の良い方だと思った。

まだ焼け野原が残る恵比寿に居を構え、
先代の幼少期を見守りながらのご近所付き合いをしている頃が、
人生で一番楽しかったと仰られていた。

二人の遺伝子を脈々と受け継ぎ、
その当時山ノ手にあって野生児を育むに相応しい風土が、
筋金入りのガキ大将を育て上げた。
先代にとって、幼少期の恵比寿の風土と演劇界は、
其れ程大きく違いは無かったのでは無いだろうか?
勿論その複雑さに於いては、恵比寿の焼け野原と演劇界では違うが…
生き延びるという事に於いては、何方も厳しい現実が有ったに違いない。
自分にとっての夢・目的完遂のために必要な人間を瞬時に見極め、
徒党を組み養い夢に向かって邁進する…その速さたるは、正に風の如しである。
演劇界のガキ大将の原型が恵比寿にあるように思われてならないのである。

そしてそのマンパワーは、同じく山ノ手に門を構える青山学院陸上部時代の
箱根駅伝出場によって、より果てしない成熟度を見せるのである。
その溢れるマンパワーは、在学中に3年間にも及ぶ音信普通の海外放浪生活
(両親は二人揃って胃潰瘍になり、病院送り)…
卒業後就職はしたものの3カ月で退社し、両親には極秘での俳優養成所通い等…
その迷走振りも半端では無かった。
先代の辞書に「止まる」の文字は無い…
父親が残した財産(大資産である)を全てを演劇につぎ込み、
スタジオライフを立ち上げた!

先代は常日頃私に言っていた…
「藤原、俺の喜びは役者だけじや無いんだよ…プロデューサー・
脚本・演出・選曲・影絵・スタジオライフ!ロンドン公演etc」
正に溢れる人間力を持った人間自身の言葉だ。
それらの多岐にわたる喜びの数々が、
スタジオライフの29年間を支えた事は言うまでも無い…
そして多くの劇団員を育てあげた。

スタジオライフで10年頑張れば、何処でも何をやっても生きて行ける様になる…
成功したOB達からは、そのような名言も飛び出すほどであった。
スタジオライフは、人生鍛錬道場でもあった。

2014年6月8日、数々の名作公演を手がけるも夢半ばにして他界。
その一生を大急ぎで駆け抜けた、まるで箱根の山を駆け抜ける風のように…
止まる事を知らぬ男の、容赦の無い全力疾走であった!!

男の一生は、一片の詩であれば良い…!
そんな時代に生まれていたら、
確実に城持ちになっていたであろう男であった。


享年64歳。

2015年1月   楽屋於      蕎麦遼太郎