2014年11月22日土曜日

「難しい、本当に難しいわ」
彼女がそう言った気がした。だがその声は風の音に消され、僕にまで届くことはなかった。
風?
と僕は思う。
扉も窓も閉ざされたこの稽古場に、風が吹くことなどあるのだろうか。
僕は細い目、もとい、目を細めて周りを見回す。
「私はあらすじしか読んでいなかったんだわ」
今度はハッキリと、彼女の言葉が届いた。
さらに風が強まる。
やっと僕は気付く。彼女の言葉をかき消したのは彼女の中から吹く風で、そして彼女の言葉を僕に届けたのも、やはり彼女の中から吹く風だった。
彼女が言葉を発する度に、風はどんどん強くなる。
ディケンズの綴る言葉が、彼女の中で嵐となり、そして僕を飲み込もうとしていた。

気がつくと、僕は嵐の中心にいた。
そこはとても静かで、そして、1匹の猫がいた。
「猫?」
思わず僕は呟く。
「君には僕が猫に見えるの?じゃあ僕は猫なんだね」
猫が喋ったことよりも、僕を驚かせたのは言葉の意味のほうだった。
「君は猫じゃないの?」
「猫と言えば猫だし、猫じゃないと言えば猫じゃない」
「どういうこと?僕にはわからない」
「ある人は僕を犬と呼ぶし、ある人は僕を羊と呼ぶ。またある人は僕を愛と呼び、ある人は絶望と呼んだ。希望と呼ばれることもあるし、孤独と呼ばれたりもする。そして君は僕を猫と呼んだ。」
「つまり、すべては同じものだということ?」
「どうだろうね。その答えはここには無いかもしれないな。ところで、君は何でここに来たんだい?」
なぜ僕はここにいるのか。僕がここに来た理由。
「そう、僕はピップを探しに来たんだ。僕は少しでも早く彼に会わなくちゃいけない」
「残念だけど、彼はここにはいないよ。ここは彼女の中心だからね。もしここでピップに会えたとしても、それは君の探している彼ではないよ」
ならどこに行けばいい、と尋ねた僕に、猫は大きなあくびで応えた。
そんなくだらない質問するなよ、君の中心に決まっているだろ、丸くなって既に眠ってしまった猫の背中がそう言っているようだった。

我に返ると、そこはいつもの稽古場だった。
トビさんがいて、マツシンがいて、劇団の皆がいて、倉田さんがいた。
あの猫、どことなく倉田さんに・・・
そこで倉田さんの声が響く。
「久保君!そうじゃないのよ!!」
ああ、いかんいかん、そんなこと考えている場合じゃない。
慌てて僕は台本を開く。今度は自分の中心に向けて。
ピップを探す旅は、まだ始まったばかり・・・。

関戸博一